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センサーヒストリー

 

前書き

 この歴史は、弊社All Sensors社創立者であるデニス・ダウエンハウアーの回想を記載した内容となります。

 私がモルガン・ヒルでお客様とお会いした時やセンサー業界の方々に初めて出会った時決まってお話しすることがあります。シリコンバレーのシリコン製センサーの歴史をいくつか紹介し過去に取り組んできたアプリケーション例を紹介するのです。この話は時に有益なアイディアやインスピレーションを与えてくれます。一部となりますがここで紹介したいと思います。

Fairchild Semiconductor社時代

 Fairchild Semiconductor社時代、私はシリコンバレーで初となるシリコンセンサー実用化のための業務に従事していました。シリコンバレーにこのセンサー技術を持ってきたのは最高責任者であったアート・ジアスです。

  アートは1950年代後半の工学系学生の時、ベル研究所でテクニカルライターをしていました。シリコンやゲルマニウムのピエゾ抵抗は、ベル研究所のファン、サーストン、スミスらの功績によって作られ、アートによって歴史に名を刻みました。

 アートは1950年代に、プロのサックス奏者としてもニューヨークの有名なスタジオで活動しました。彼はこう言いました、「私はトップジャズ演奏者と演奏するぐらいサックスに熱中していました。しかし、彼らほど才能はありませんでした。」

 ファンの功績によって、アートはシリコンセンサーにおける生涯のキャリアを作る事が出来ました。ビル・ファンはアートに刺激を与えただけでなく、「私達が発見した半導体の圧電効果は何かに利用できるのではないか。」と助言しました。おそらくこの時にピエゾ抵抗という物が産業として生まれたのです。

 1960年、アートはGE社に入社し、ソリッドステイトモーション導入においてコンペティションをHoneywell社から勝ち取りました。それによってトニー・カーツはHoneywell社を離れ、クーライトを見つけました。1964年、アートはHoneywell社に入社しソリッドステイト電気センター(SSEC)を始めました。60年代、アートはSSECの、航空宇宙・産業・マイクロスイッチ部門でピエゾ抵抗加速器と圧力センサーの発展に尽力しました。
 ハンズ・ケラーはその時SSECの物理学者でした。彼はのちにスイスでKeller社を設立しました。

 1969年にアートは元Honeywell社のドン・レイナムにFairchild Camera & Instrument社のトランスデューサー部門の技術ディレクターとして招聘されました。ジーン・バークはすぐにHoneywell社を離れ、アートの元へ参加しました。アートはジーンにバルク型シリコンマイクロマシニングにおける独自の研究を与えました。ジーンの業績以前、センサーは3次元構造を組み込んでおらず、平面だけでした。ドン・アート・ジーンは、Fairchild社を離れ、ICTranducers社(後のFoxboroICT社)をフェアチャイルド社の援助で1971年に設立しました。」

 1972年、アートとビル・ハレはフFairchild社の援助なしに、National Semiconductor社のトランスデューサー部門を設立しました。ICT社に加え、Fairchild社にて自動車への応用に関する研究が行われていました。
 Fairchild社において、イグニションモジュールへの技術と同様に、シリコンピエゾ抵抗技術に基づき多くの圧力センサーの発展が続けられました。しかしアートが離れた事によって、その研究は止められました。National Semiconductor社とFairchild社はアートの離脱についての訴訟に関与しました。Fairchild社に残った技術はBob Hood社に売られ、結局Emerson Elecrric社に転売され、それ以来名前を聞くことがありません。

 私は1973年にFairchild Semiconductor社の共通の友達と技術者のリック・スチャフジンと行ったゴルフ旅行でアートに会いました。リックは1980年代にIC Transducers社の社長になりました。アートはすごいゴルフスイングをします。アートがスイングする時メトセラの呪いを避けるために目をそらすのが一番良い方法でした。アートのスイングを見ると塩の柱になってしまうと噂されました。(※アメリカンジョーク)

 Fairchild社で私達はDelco Electronics社と共に、ファーストソリッドステートイグニションモジュールを発展させ、ピーク時には週に5万モジュールを出荷しました。私は自動車やその他のハイブリッド製品に関する製造過程・製品エンジニアでした。技術マネージャーは現在のAltera社の社長ロドニー・スミスでした。

National Semiconductor社時代

 1970年代前半シリコンバレーにおいて商業用のシリコン製センサーを製造していたのはNational Semiconductor社のアートとFairchild社との共同研究をしていたIC Trunsducers社のドン・レイナムだけでした。世界ではHoneywell Microswitch、Hans Keller、スイスのKeller、ニュージャージーのKulite、ヨーロッパのPhilipsなどが製造していました。

 当時最新の研究を行っていたのはアメリカの大学でした。ケース・ウェスタンのウェン・コー博士、スタンフォードのケンダル・ワイズ博士、カーネギーメロンのジョン・グラッグ博士などの研究グループです。

 National Semiconductor社は自動車に組み込むために事業に参入したいと考えていました。アートはNational社の経営陣に「圧電効果」についてスピーチするよう求められました。アートは、最も簡単な言葉で説明しようとしました。彼はシリコンによる信号変換が利益へと繋がることを説明しました。それはNational社にとって魅力的で、アートのNational社における10年間の研究生活が始まりました。
 アートはより正確にシリコンによる「圧電効果」についてスピーチし、このスピーチはその後のNational Semiconductor社へ大きな影響を与えました。

 1970年代中盤には、私はNational Semicondutcors社のトランスデューサーズを含む全てのハイブリッド製品のマーケティングに関する責任を任せれていました。その時、車会社による、自動車のMAPセンサーを発展させるための大きな研究努力がありました。
 National社では、私達はDelco Electronics社とFord社と一緒に、2種類のMAPセンサーを共同開発しました。Delco社モデルには当時のHoneywell社と同様のセンサーダイがあり、Fairchild社のイグニションモジュールと同様の形状をしていました。この製品とそのモデルは未だにDelco社などが製造されています。
 このセンサーと同様のモデルは全ての世界中の他の主要な自動車メーカーで利用され、事実上の業界スタンダードとなっています。Ford社モデルはシリコン可変静電圧力センサーです。それは未だにFord社とMotorola社によって製造されています。しかし、その他の車のメーカーでは使われていません。ピエゾ抵抗式よりも高価だからです。一部の企業では厚膜ハイブリッドMAPセンサーも使われています。」

 1977年、私はシアトルのTransducer Range Commanders会議にと参加していました。この会議には当時Kulite社の技術副長であるジョー・マロンも参加していました。この時、ジョーはシリコンのピエゾ抵抗圧力センシング過程における非常に多くの特許を持っていました。(1983年、ジョー、カート・ピーターソン、ヤヌーシュ・ブリゼックはNova Sensorsの共同創設者となりました。)
 私はこの会議でその当時シリコン圧力センサーの半導体処理による温度影響に関して最も知識のある人物であるジョーを知りました。今日でもほとんどの企業は抵抗と感度における温度係数を設定するために、シリコン中のドーパント濃度を決定にために彼の業績を参考にしています。

 1978年、私はサンフランシスコのセミコン・ウェストに参加し、ワヌス・ブリゼック博士のシリコン圧力センサーの温度補償に関するプレゼンを聞いていました。ワヌスは、少なくとも20個のアンプと数百の抵抗とたくさんのポテンショメータを持つ電子回路をプレゼンしました。私が今まで見てきた温度補償に関する電子回路の中で最も精巧な設計でした。彼は聴衆に「ブリゼック博士、これだけたくさんの要素がある回路の温度補償では誤差はどれくらいになるのですか?」と聞かれました。ワヌスは何のためらいもなく「誤差はありません、完璧です!」と答えました。彼は正しいと思うがどうやってそれを証明するのだろうか?と私は感じました。(マーケティングの観点からではなく、エンジニアの観点から。)この会議から私はワヌスを知りました。
 この同じ時期、American Hospital Supply社はNational社に5ドルの使い捨て血圧用圧力センサーを提案しました。最初の研究はその時始まり、今日おそらく圧力センサーの応用で、自動車用のMAPセンサーに次いで世界2番目に大きな応用先となっています。」

 1977年、National Semiconductors社のトランスデューサーハンドブックは、トランスデューサー業界の参考書となりました。この本は未だにSensym社のハンドブックと共に再版されています。このハンドブックは未だに圧力センサーの選択する上での参考書となっているのです。1977年のハンドブックは、「キーキー鳴く豚」という音響測定に関する章や「サムソンと喜び」という信号調節の章など普通でないタイトルや前書きが含まれているユニークな本でした。この本はアートと、当時のバイブルを監修し書き直している物理学者のレイ・ピッツ博士、そして私の成果です。特にレイ博士が骨を折りました。当時は予想もされていませんでしたが彼National社との不幸な終わりと悲劇的な人生の終わりが彼を待っていました。」

 1980年私はNational社のトランスデューサー製品の運営部長になり、アート・ジアズは私の直属でした。それは私達にとって本当にやりがいがあり楽しい時間で、アートは全員を楽しませてくれました。エンジニアに加えアートはNational Semiconductors社の年間の売上会議の式典の責任者となり、彼の多くの逸話を伝える役割として私を使おうとしました。記憶に残っている彼の逸話の1つはナショナルセミコンダクターのCEO、チャーリー・スポックについてです。彼の財務分析の批判に対して、チャーリーは「彼は会社を壊そうとしている」と言いました。この発言に関してアートはナショナルの数百人の従業員とその販売員に「あの怒っているお金持ちの男は奇妙な迷信を作り上げてしまう可能性があるのを見せてあげましょう。」と言いました。トランスデューサービジネスの特許は短い期間で1億ドルのビジネスに成長するために何が必要なのかを決めるものでした。その時私は知りませんでしたが、他の代替可能なものだけがそのビジネスを抜け出すものでした。」

National Semiconductors社のトランスデューサー事業に携わる著名人

「ナショナルセミコンダクターの著名な人がトランスデューサーの運営に関与しました。最も著名な人物は1974年から1979年までのハイブリッドとトランスデューサー製品の運営部長のマイク・スコットでした。私はこの時マイクの直属であり、彼は最もマーケティングに知識があり、恐らく私が今まで出会った中で一番輝いた人物でした。以前フェアチャイルドのマイク・マークラに使えていたマイクは、ナショナルを離れ、アップルコンピューターの初代社長となり、彼とスティーブ・ジョブスの考え方が異なった1983年にアップルを離れました。アップルの広報議長のマークラ、はマイクの代わりにスティーブを選択しました。マイクはこの時にアップルの800万の株を持ってアップルを離れ、その後を楽しみました。彼は、打ち上げに失敗した最初の衛星とスターストラックと一緒に、衛星事業を立ち上げようと試みました。彼らの衛星のコンセプトは圧倒的な技術力のアピールでした。しかし、結局その衛星を見る高価なボートを持っただけで、資本は大西洋に沈んでいきました。フロイド・クヴァーミーはナショナルのマーケティング部門と販売部門の部長でした。ピエール・ラモンドは研究開発を試みました。フロイドとピエールは本日のベンチャーキャピタル界隈ではとても知られた人物です。ナショナルでは私達のセミコンダクター処理はボブ・スワンソンによって、リニアグループで行われていました。ボブはナショナルをリニアピープルのチームと共に離れ、今日セミコンダクターで非常に利益を上げている会社、リニアテクノロジーを起業しました。彼らが離れたことを受けて、チャーリー・スポークは、明らかに不自然なチームがカフェなどで話をして、会社を離れようとする事を禁止しました。特にそれから彼らは社会に適応しなくなりました。リニアの共同者の1人、私はナショナルで少しの間一緒に働いていた、ブレント・ウェリングはのちに私達に加わりセンシムのマーケティング部門と販売部門の部長になろうとしました。

 ナショナルでは私は彼らの慈善的な委員会のメンバーでスタンフォード大学のセンサーグループを訪れる機会がありました。ケンダル・ワイズはその研究のトップでミシガンの大学のセンサー研究を任されていました。私はジム・ヌッティに会いました。彼は、国立保健研究機構を設立、集積回路、羊の体の機能を測定するための組み合わせ圧力や温度センサーに関わっていました。ジムはヘンリー・アレン博士と共に研究し、後に(1984年?)にアートが以前に「ロボットの指」として出版していたシリコンを使用する力センサーを製造する会社を立ち上げました。この会社トランセンソリーデバイス IncはICセンサーズによって必要とされ、ジムとヘンリーはICセンサーズと手を組みました。ジムはその後少しの間離れ、スイスでアスコムと共にセンサー動作の会社を始めました。アスコムは結局裏切られ、けんかが起こり、最終的に彼らはこのビジネスをやめました。ヘンリーはジムに参加しアスコムと共に1992年シリコンマイクロストラクチャーを立ち上げました。SMIは1995年にExarによって必要とされ、ジムとヘンリーはSMIとExarのために活動を続けました。彼らはシリコンの圧力集中、モデリング、低圧機器や加速器のためにシリコン構造において非常に良い研究をしました。」


[センシム時代]
「1982年、私がナショナル運営部にトランスデューサーの事業が近い将来1億ドル規模になると期待するのは現実的ではないという事を伝えた後、私はこの事業を売却するよう指示されました。その時、ジョン・ネシャイムはナショナルの会計係となり、私に指示をしました。ジョンは後にテレビで有名なアート・リンクレターと共にミニストリーマネジメントを作り、ベンチャーキャピタル財政に関するいくつかの本を書きました。その時、私のマーケティング部門の部長はマニー・ネイクで、今はインテグレイテッドセンサーソリューションズの社長となっています。マニーと私はジョン・マロンと話し合い、私達3人はどうすれはこの事業を進められるかを考えました。私達はヤヌーシュ・ブリゼックも議論に招待する事に決めました。十分な会議の後、私達は会社の体制について同意する事は出来ず(「社長室」は後にノバセンサーズとくっつき、私には魅力的には見えませんでした)そして、ナショナルの運営のレバレッジド・バイアウトを提案する事にして、ヤヌーシュは技術部門の部長として私達に加わろうとしました。


 マニーはナショナルに残り、後に離れインテグレイテッドセンサーソリューションズを見つけました。ISSは現在自動車へ応用に関する圧力センサー分野で活動しており、日本、ドイツ、アメリカのブリードオートモーティブの会社と戦略上の関係を持っています。マニーは疑いもなく、圧力センサー事業でマーケティングに関して最も良い人物です。私はトランスデューサーグループの財政を整えるためにナショナルから1ヶ月を与えられました。
ジョン・ネシャイムの紹介を通して、私はロバートソン、コールマンとステフェン、ボブ・カミングスを介した現在のサンフランシスコのロバートソン、ステフェンアンドカンパニーからの融資によって素早く整える事が出来ました。ボブはまたクロスポイントインベストメントに貢献し、私達はクロスポイントのパートナーのジョン・マムフォードの助けを借りて事業計画を発展させました。私はジョン・ネシャイムによって財政コミュニティに紹介してもらえてとても幸せでした。私達は1982年にこの事業の買収を完了させ、この時からセンシムが生まれました。私は前の5年間ドイツにある、ヨーロッパのマケーティンング部長、Helmut Gutgesellと、とてもいい関係を築きました。彼はセンシムの製品を独占するためにドイツで新たな会社を立ち上げようと提案しました。それで生まれたのがSensortechnics GmbHです。Sensortechnicsは本日ヨーロッパで圧力センサーの供給者として最も成功している企業の1つです。」


 「私はセンシムを最近インターデザインのない工場として1253 Reamwood Avenue、Sunnyvale、に置きました。インターデザインはフェランティに売られ、スコットバレーに移動しました。この住所は私が現在住んでいるデータインスツルメンツASGに似ています。私達は4インチのセミコンダクター製造施設を置き、シリコンのマイクロマシン構造と同様にリニアICを組み立てる事が出来るようにしました。私達のセンシムでの素晴らしい業績のいくつには、多腔型カテーテルのための0.023インチ以下の、カテーテルの組み込まれた使い捨て圧力センサーを含む、観血的または非観血的な応用のための使い捨ての血圧センサーなどがあります。私達はフルカスタムのICの付いている圧力センサーや温度センサーがある、ミシュランのためのハイブリッドモジュールを発展させました。(それら全ては社内で製造されます。最初はBMWモデル850のタイヤの圧力センシングに使われました。私達はフルカスタムの砲弾距離センサーや電動義手を作りました。これには私達の最初のシリコン加速器メーターが含まれています。そのモジュールは距離を測定するために加速の2重積分をします。そして、私達はまず、低コストのデジタルのタイヤ圧力ゲージを発展させました。これはその時では、そのコストのもとで最も洗練された圧力センサーでした。そのタイヤの圧力事業にはそれ自身の物語があります。80年代、センシムは産業研究(より正確な発展)の重要な部分が行われている所に位置していました。ノバセンサーズは研究をし、センシムは発展をしました。


 ヤヌーシュ・ブリゼックは私達と約3か月間共同となり、ちょうどフォックスボローICTに行きICセンサーズを始めたドン・レイナムに参加しました。彼の代わりに、私達はモトローラから私達の技術研究をサポートするためにジョン・グラッグを雇いました。ジョンはカーネギーメロンで圧力センサーを製造する目的でシリコンのせん断ひずみを研究していました。この技術はベル研究所でのファンとサーストンの研究が発端となっています。3つの基本的な技術は、シリコンベースの圧力センサー、可変コンデンサ、単軸の縦および横方向のピエゾ抵抗、せん断ひずみのピエゾ抵抗を製造するために使われています。特定の応用において、より適切なレンダリングに関してのトレードオフがあります。ジョンとカール・デリングトンはこの技術を大学から引き出し、モトローラでそれを宣伝するための手助けとなりました。モトローラはピエゾ抵抗と可変コンデンサの両方の圧力センシング技術を商業的に兼ね備えている唯一の会社です。モトローラは現在、アメリカで唯一の、OEMの自動車用の圧力センサーに関する外販の供給者です。ジョンはセンシムと共同になって1年も満たないです。彼の妻は彼がフェニックスからサンジョーズへ移動する事を良く思っていないし、フェニックスへと引っ越ししようとも思っていません。ジョンは新たなモトローラの技術に興味があり、モトローラに戻りました。」


 「自動車への応用はシリコンセンサーの発展への大きな触媒となっています。それはまず、多数の絶対圧力センサーと共に始まり、近年エアーバッグクラッシュのセンサーや燃料蒸気センシングへと拡大し、油圧やメモリーシートでの快適なセートブラッダー、空調の圧力スイッチ、タイヤの圧力、知的な振動減衰装置などへの使用が考えられています。(路上外走行車やトラックへの応用は言うまでもありません。)研究努力へはシーメンスやフラウンホーファー協会によってドイツで資金提供されています。ベンディックスの自動車事業がシーメンスによって必要とされたとき、シーメンスはベンディックスのセンサー研究グループを必要としました。このグループは5000万ドル以上の資金を受けました。ドイツでの研究は政府(数百万ドル)や自動車産業によって大きく資金を受けています。
この資金提供にも関わらず、テキサスインスツルメント製ピエゾ抵抗センサーを用いて使い捨て血圧センサー売っているたった1つの企業、ミュンヘン近くの小さな会社です。この事業は数年前に終了しました。」


「1989年、ベンチャーキャピタル界隈から資金を調達して数年後、(これはベンチャー業界ではよくある事ですが、)センシムが、そのお金を返す時がきました。センシムでは私達はナショナルへ返済期限である1984年に、そのお金がなかったため、なんとかかき集めました。話を短くすると、当時のナショナルの財政部長であるチャーリー・スポークと現在のナショナルセミコンダクターの広報部長のメンバーであるグレイ・アーノルドのおかげで、ナショナルはその切手を無効とし、センシムと対等な立場となりました。1989年、シンセムを売る目的で、私は現在のHarris-RojaであるKahn & Harrisのボブ・ハリスを温存しました。私達はセンシムを必要とする多くの企業からの大きな関心を受けました。20社ほどからの訪問の後、私達は運営状況や提供出来る資金額等を元に5社以下へとしぼりました。最終的に、Hawker Siddeleyからのオファーを受けました。Hawker Siddeleyは7~10回ほどの投資利回りを受け取りました。その投資収益率は受諾されました。」


 「ホーカー・シデリーはロードアイランドでファスコセンサーズアンドコントロールズと呼ばれるデール・ベネットによって運営されているアメリカの大きなセンサーグループを持ちました。このグループはノースカロライナのファスコ、ロードアイランドのエルムウッドセンサーズ、ロングアイランドのエアロスペースアンドアビエーション、南カリフォルニアのマンソン、フロリダのレイザーデータ、ニューイングランドのクレアスタット、テキサスの光ファイバーモジュールのセニシスなどがあります。私はグループ会議を通してこれらの全ての企業と親密になろうとし、それぞれから技術アシスタントを頼まれました。私達はアート・ジアスを1年間私達のコンサルタントをするために雇い、ファスコ事業のそれぞれの技術的な方法を提供しました。1981年、ホーカー・シデリーはBTRや新たなエイギリスの複合企業による敵対的買収を防ごうとしました。その期間中私達はホーカー・シデリーからセンシムを再買収する事が出来るほどになりましたが、BTRがホーカーつまり、センシムの運営を買収する前にそれが出来ませんでした。BTRはホーカー・シデニーに取って当たり前だったものとは全然違う運営精神を持っています。BTRはその方法で成功をおさめ、企業を買収し、10%価格を上げ、従業員コストを10%カットしました。翌年、1%の価格上昇と、従業員コストを1%未満の上昇に抑えて、BTRの計画は始まりました。とても単純な事です。それはBTR企業には当たり前の事です。そういった運営をするにはたった1人の会計士が必要で、私は契約の終わりである1992年3月に辞表を提出すれば十分です。センシムを離れる前に、私はそういった体制では事業がだんだんと悪くなるという運命であるため、センシムを買収するつもりであるという事をBTRに提案しました。彼らは私の提案を辞退しました。センシムは当時BTRの下で続いていました。
BTRとシーブは1997年に合併しました。それによって、センシムとフォックスボロ/ITCはクリス・カートソナズの下で合併整理されました。ICT施設は売られ、全ての運営はセンシムと共に合併整理されました。センシムの製造は主にメキシコにあるフワレス工場によってなされました。シリコン処理は現在もミルピタスでなされています。
センシムの名前はインベンシスセンサーシステムズに取って変わられました。これはBTRのセンサーグループの前身の全ての企業のグループ名です。」


[アート・ジアス]
 「しかし、あなたがアート・ジアスに尋ねた事はどうなるのか。1996年のクリスマスと1997年の新年の間、アートと彼の愛妻エリーはアフリカを旅しました。彼らの旅行は一部オークランド学区によってエボニックスの新の起源を研究するために資金提供されていたという報告があります。しかし、アートは新たなセンサー企業を立ち上げたり、サックスでスワリ軍隊のマーチングを先導していたという他の報告もあります。アートの背景に基づくと、どの可能性もあり、実際どれも真実です。ナショナルセミコンダクターを1982年に離れてすぐに、アートはトリコンプセンサーズの共同開発者となりました。トリコンプセンサーズは自己資金の投資家で優れた資本金調達者である、ラルフ・ボーストによって財政破たんをし、最終的に公的資金を受けた企業です。アートはその時ベリー・ブロック教授と一緒にキャプターを見つけました。


 ベリーは「可変コンデンサやシリコンのマイクロ構造の指導者であり」、70年代に自動車の加速器のためにその技術をシグネティックスに売った事を通して彼自身で名前を作りました。ベリーと提携している人々はそれぞれ、彼が自身で作った名前に関する異なったワードを持っています。私は彼が非常に面白いと思いました。しかし、彼との会議に彼の代理人がいて、彼が訴訟によって大金を得たという事を伝えられた時、少し困惑しました。
キャプターはドレッサーインダストリーと契約し、超低圧(0.1インチ水柱フルスケール)の可変コンデンサ差圧トランスデューサーである「ターンキー」を発展させました。ドレッサーのために発展させたこの技術は現在、ドレッサーの低圧機器や日本とのベンチャー企業ドレッサーナガノで製造されるいくつかの製品に使われています。他のシリコン圧力センサーはフジクラによって日本で製造され、ナガノと他の企業は、ハネウエルやドレッサー、フォックスボロ ICT、そして彼らの日本の提携者間での技術移転を通して、彼らの起源を持っています。キャプターの技術権利はドレッサーに売られ、アートとベリーは他の研究のために離れました。」


「 アートは、タホ湖の近くの牧場に住んでいる富豪であるハーベイ・ワグナーによって作られた企業である、メンロパークのテクネクロンセンサーディベロプメントコープに加わりました。ハーベイはTRWに信用状況報告のソフトウェア企業を売った時に大金を得ました。テクネクロンは未熟な環境にある企業を発展させるためや流動資産の換金のために作られ、投資家であるハーベイに対して大きな投資利回りを与えました。その施設はアートセンサーセミコンダクターやマイクロマシンの能力を持っています。最終的に、TSDは、投資利回りがとても低いと予想された時に、その資本を終わらせました。社長のマーティン・プシビルスキ、技術部長のアート、技術部のショーン・ケイヒル、施設関連のノーム・ニストームは離れFluid ICというシリコンガスの流動性を測定する会社を作りました。この会社は家庭用自然ガスメーターとその他のガス配布事業における測定システムの監視をする事を発展させる目的で資本を集めました。Fluid ICはItronにより1995年運営が終了しました。

 アートは現在キャプターのデータベース管理、ジアセンスを通してコンサルティングをしています。アートはセンサー産業のいくつかの会社にコンサルティングをしています。彼は新規の会社に対してシリコンセンサー技術について少し指導をしたり、技術力や事業に十分な能力がある会社にはきっちりと教育をしたりしています。アートはまた、センサーのASIC信号調整回路を提供しているAli Rastegarによって資本をもらっている前途有望な新企業であるMCAテクノロギーの指導者としても活躍しています。アートは本当に良い人間で、シリコンマイクロマシン産業を形成する上で重要な人物です。しかし、彼は今も恐ろしいゴルフスイングをします。」

[NeXt Sensors]
「1992年私はリタイヤしました。リタイヤは、誰か、特に12歳から働いているような人が良いものだと見せかけるようなものではありません。40代で蓄財をなしリタイヤした私の友達は「私は出世競争を恋しいとは思わないが、何人かの同僚は恋しいと思います。」と言うだろう。

1993年の前半、私はセンシムにサンノゼのセンサーショーに参加するつもりであることを伝え、2年間の競争禁止契約をしてから、彼らは何を求めているかを決定しました。センシムは私がそのショーに参加しないよう保全処分をしました。裁判所は彼らの要求を棄却し、私はいくつかの規定のもと参加する事が許されました。センシムは私がセンサー事業に関わらないようにするために多くの時間と費用を使いました。私達は、裁判所から告げられた規定を破らないという点に置いては異なった考えを持っていました。結局私は法律や司法制度について学び、センシムは私がアメリカで1994年6月1日まで規定を破らないようにするのに多くのお金を使いました。私は、センシムは製品改善に費やしたお金全てを弁護料に費やしたため、彼らは良い企業になるだろうと信じています。」


 「アメリカで始まったトラブルを経験してから、私は1993年ドイツのニュンベルグのセンサーショーに展示をしました。私のブースには製品はなく、いくつかの花と私がいるだけでした。ハンズ・ケラーは立ち止まり、花に関する事業をやっているのかと私に尋ねました。それはアレクサンダー・ブライテンバッハに会った時私は幸運でした。アレクサンダーはショーの数週間前に、センサーテクニックスGmbhを辞めたばかりでした。アレクサンダーはセンサーテクニックスでは非常に優れたセールスマンで、その事業の重要な部分を担っていました。1994年の最初から、アレクサンダーと私はヨーロッパでNeXt Sensors Gmbhを立ち上げました。
  私はアメリカにNeXt Sensorsを持ち込み、1994年6月にセンシムと似た圧力センサーをいくつか製造し始めました。最初の月に一緒に働きたいと思っていた私の弟とデール・ダウエンハウアーとマリッサ・マグケースが加わりました。マリッサはセンシムでの品質保証マネージャーでした。1993年までセンシムの技術・製造部長だったフレッド・アダミックも従業員としてではなく加わり、彼は自身の会社Spectrum MicroDevicesを立ち上げました。フレッドは今も私達の下にいますし、Spectrum MicroDevicesも未だ活動中です。立ち上げ当初、私達は2,3社から非常に重要なアシスタントをもらい、何人かは他の人から財政的なサポートを必要としていました。Gandolfの設立者でセンシムのタイヤの圧力ゲージを設計したティム・ショッターは製品設計サポートをしてくれました。DB Designの設立者でセンシムで10年ほど働いていたデレック・ボーワーズはパッケージデザインを提供してくれて、付属品の設計サポートをしてくれました。私はRobertson & StephensとSensotecの社長ジョン・イーストンから財政サポートを受けました。これらのサポートがとても助かりました。
1995中ごろまで、私達はより多くの財政サポートが必要と分かっていたので、何が出来るかという事を見つけるために、Harris-Rojaからのサービスを続けました。売り上げを上げマーケティング業績を上げるために多くの投資が必要だったので、私達は合併に興味ある企業を探し、彼らのインフラを使用する事に決めました。短い期間の中、私達はData Instruments と Telcom Semiconductorに興味を持ちました。Telcomの財政部長であるマイク・オマリーを知っていて、約20年間私はTelcomの社長、フィル・ドレイヤーに好印象を持っていたため、私個人的にはTelcomと働きたいと思っていました。フィル・ドレイヤーがモントレーAEAの技術会社の財政会議でプレゼンをしているのを見たことがあります。」

[ASG]
 「私達はNeXt SensorsとData Instrumentsを統合させ、1994年12月にData Instruments Advanced Siliconグループを作りました。当時はDI-ASGとともに何が起こるかについてはまだ分かりませんでした。この時、後にアジアパシフィックを任せることになる日本人セールスマン 秦哲夫氏 と出会いました。


1995年には、Data InstrumentsはNeXt Sensors Gmbhを買収し、北ドイツのハノーバー近くで全てのData Instruments European Marketing and SalesをData Instruments -Next Sensors GmbHと合併しました。
 1996年1月、フランスのパリのSensymtronicはData Instrumentsによって、必要とされ、Data Instruments Franceへと合併されました。それぞれの社長はそれぞれの部門の運営を続けています。

1998年11月、Data Instrumentsはハネウエルに売られました。ASGグループ(NeXt Sensors)は運営を止めFreeport, Ilへと移りました。NeXt Sensorsの人々は6か月間、サニーベールからFreeportへの移動を手伝いました。重要な全ての人々はサンフランシスコベイ地域に残っています。Data Instruments in Acton, MAでの重要な全ての人々はもはや会社にはいません。」

1999 – All Sensors CooperationがDennis Dauenhauerにより設立
2001 – ミニサイドポートパッケージを開発
2005 – 業務拡大により20,000 Sq Ft 開発・設計・生産工場をカリフォルニア州モーガンニルに移転
2006 – RoHSコンプライアンスに準拠
2009 – ISO 9001:2008に認定
2010 – ULP 圧力ダイ及びCoBeam2 TM テクノロジー開発
2013 - REACH コンプライアンスに準拠
2014 - All Sensors GmbHを独国に設立
2014 – 鉱物政策に準拠
2015 – All Sensors Asia Pacific株式会社を日本に設立